3 /5 フクロウ: 江戸時代の蕨宿の歴史を学ぶことができます。江戸時代、今の蕨市一帯は中山道六十九次のうち、2番目の宿・蕨宿がありました。蕨宿には老中・水野忠邦や加賀藩の前田家、皇女の和宮などといった名だたる大名や公家も宿泊するなどして栄えましたが、蕨が宿場町として繁栄した理由のひとつには、現在の荒川の一部である戸田川の存在があります。
蕨宿が属する中山道は江戸方から進むと戸田川を越えなければ蕨宿に辿り着けません。その際に渡河を担う「戸田の渡し」は蕨宿と切っても切れない繋がりで、参勤交代などの大量通行時は、蕨宿は近隣の村から船や人員を徴発していました。
当時の戸田川の川幅は大雨が降ると平時の100mから約4kmにも広がり、しばしば渡河が中止になりました。平時でも夕方以降は危険を避けるため、渡しは中止され、旅人は蕨宿での逗留を余儀なくされました。そのため、蕨宿では逗留する人たちに対応するため、東隣りの塚越村にも本陣を置き、二の本陣又は東の本陣と呼ばれました。このように蕨宿に逗留して戸田の渡しを待つ人たちがいたため、彼らを相手にする宿や飲食店や商店も集まったことが、蕨宿が宿場町として栄える原動力になったのです。
資料館では残された資料を元に蕨宿の様子が良く分かるようになっています。大名が宿泊する時に宿に掲げられる関札なども残っているんですね。皇女和宮が宿泊する時は、事前に入念に準備をしていたようです。大名とは言え自分の都合でやって来る人たち相手にそこまでする宿場町の人は大変ですね。
蕨は宿場町として栄える一方で織物業も栄え、五代目高橋新五郎は青縞を織って江戸に売り出し、六代目高橋新五郎はイギリス製の洋糸を使って二タ子縞(ふたこおり)を生み出しました。蕨の織物産業は明治時代に全盛期を迎えましたが、昭和に入り日中戦争が激化すると衰退していったそうです。